吐く息が白くなっている事に、ああ、そう言えば今日は朝から寒かったと気づく。

 マンションの階段を踏むと、靴の底がカン、と音を立てた。あたしは寒さに身震いする体を早く暖めたくて、自分の部屋のドアの前に来てからいそいそとカバンの中を探った。すると、ガチャッと目の前で開く筈のないドアが解放されて、あたしは眼を見開く。

「よ」

軽く手をあげて、藤真はあたしを招き入れてくれた。

 て言うか何であんたがここにいる。

「よ、じゃないんだけど何でいんの?」
「や、今日外寒いし。そんな中電車待つのやだし。泊めて」
「つか何で中入れたの?」
「鍵しまってなかった」
「うそ!」
「不用心だな〜、趣味の悪い男が下着とか盗みに入るかもしんねーじゃん気をつけろよ」
「何それあんたのこと?」

なわけねーだろ!と声を荒げている男をどけてやっと部屋の中に入る。あ、やっぱり暖かい。そう言えば藤真は寒がりだった。ソファにぼすっと無造作にカバンを置いてその隣に体を沈めた。ああ、疲労感が一気に…(バイト+玄関でのやり取りのせいだ)。

「今日バイト?」
「そー…おなかすいた」
「コンビニのおにぎりならあるけど食う?」
「食う!」

はいはい、といいながらガサガサと袋を探ってひとつおにぎりをあたしに差し出した。「どーも」といいながら受けとって包みをびりっと破いた。

「藤真もバイトだったんだ」
「そー。今日も変わらずモテモテよ俺」

そう言ってにやっと笑う藤真はファミレスでバイトしている。事実こいつがバイトで入る日は繁盛するらしい(なんと理不尽な)。

「ていうか、行くなら彼女んとこ行けばよかったじゃん、あたしんとこじゃなくて」
「えーだって別れたもん」
「えっうそ」
「まじまじ」
「いつ?今週?」
「昨日!の、午後9時32分」
「そこまで聞いてねーよ」

 なんと藤真は3か月付き合っていた彼女と別れたらしい。昨日の午後9時32分に。あたしその時何してたかな、ああお風呂入ってたかな。お風呂の間に身近な友人が彼女と別れていたなんてなんか笑える。おにぎりを頬張りながらテーブルに肘をつく藤真に目をやる。

「ゴシューショーサマ」
「うるせー俺から振ったんだよ、失恋じゃねえ」
「あれ、そうなの?つまんな」
「てめえ!」
「あはは」

藤真はちらっとあたしを見た後、すぐに目をそらしてテレビの電源を付けた。箱の中では今話題のイケメン俳優が出ているドラマが放送されてた。(あーかっこいいな三浦春馬)でもすいません、あたしはそれよりも今日は早く就寝したいわけでありまして。

「じゃ、あたしお風呂はいってくるー」

おにぎりを食べ終えて立ち上がると、藤真が「は!?」と声を上げてあたしを見上げた。

「なにさ、お風呂入るだけだよ」
「いやっ、だから、…」
「?」

その先に藤真が何か言うのかと思いあたしは少し黙っていたけど藤真は何も言ってこなかったから、「じゃ、お先〜」と言って藤真を置き去りにして脱衣所に向かう。お風呂場のドアを開けて湯船のお湯が温かいことを確認してから、脱衣所の扉を閉めようと振り返ると、そこにはリビングにいるはずの藤真がすぐ近くにいて物凄くびっくりして、「うわあ!」と声を上げてしまった。藤真はあろうことかあたしの手首を掴んで、壁に押し付けてきた。あたしは突然のことに声も出なくてただ藤真を見上げることしかできない。目の前にいる藤真は、いつになく真剣なまなざしであたしを見下ろしていて、どくっと心臓が揺れる。

「お前、男がいるのにどーして普通に風呂入ろうとするわけ」
「こういうことになるの、予想つかなかった?」

 藤真はそう言って、怒っているような悲しいような、読み取れない顔をした。何で、そんな顔するの。

「お前、俺が彼女と別れた理由わかるかよ」
「…わかんない…」

藤真が背負う空気に威圧されて、声がか細くなってしまいつつも、わからないと答えた。すると藤真は押し付けていた手首から手を離して、あたしをぎゅっと強く抱き締めた。ああ、藤真の匂いがする。

「お前が好きだからだよ」

だから、そういう無防備なことされると、どーしていいかわかんなくなる。そう言って藤真はさっきよりも強くあたしを抱き締めた。

ねえ藤真、あたしが感じていた感情の名前を、知らないわけじゃないでしょう。あんたが彼女を作るたびに崩れそうになるあたしの気持ち、気付かなかったわけじゃないんでしょう。

「藤真、好き」


あたしがそう言うと藤真はあたしの肩口で、低く笑った。






(心臓に金の刺繍)