声をかけたら、なんだよ、って言う。それだけ。振り向いてくれさえもしない。そんな時、私は思うのだ。あれは何かの間違いだったのか、と。あのとき交わした約束、気持ちのやりとりは、夢だったのかと。所詮口約束は口約束にすぎないし、もしかしたら本当に夢だったのかもしれないと思い始めると決まって私は頭を振るのだ。そんなこと、あってほしくない。 吐きだす息が苦しい。もう、30分ぐらいは走っているような気がする。だけどそんなに、元運動部とはいえ現役を引退したあたしがそこまで動ける訳もなく、実際のところ3分から5分、そんなところだろう。人の感性は、なんと恐ろしい。30分を5分に替えてしまう力を持っているなんて。そんな余裕のあることを考えてる暇など微塵もなく、あたしは涙が零れ落ちそうな眼を必死に開いて、眉をひそめて、人ごみの中をひたすら走っている。 事の発端は簡単なことだ。はっきりしてくれない獄寺が悔しくて悲しくて、あたしがそれに耐えられなくなっただけ。「もういい、さようなら!」と怒気を含む声を獄寺にぶちまけて、あたしは背を向けて全力疾走したのだ。きっと、追いかけても来ない。そう思った矢先には後ろで走ってくる音がして、少し振り向くと顔こそ走る揺れで確かには見えないが、確実にこちらに走ってきている獄寺を見つけた。何を思ったのかあたしはスピードを上げ、人の多い街通りへと繰り出した。途中途中で人にぶつかりそうにはなるけど、そこは部活で鍛えられた反射神経と謝ることになれた「すいません」という言葉を何度も発して幾度も幾度も足を踏み出す。後ろを見る余裕など無い。もう追ってきてないかもしれないのに、あたしは込み上げてくる涙を振りほどきたくて、懸命に走る。走る走る。たどり着いたのは、少し思い出のある河原だった。なんと皮肉な。ようやく足を止めて、乱れ過ぎてもう何が何だかわからない呼吸を整える努力をし、同じように乱れた髪を手櫛でとかして、土手から降りて草原に立ち竦んだ。流れる川の流れが妙に切なくて、あたしの眼からはとうとう涙がこぼれた。一回流れるともう止まらなくて、せっかく息を整えたのにそれが嗚咽によって台無しになってしまった。もう、いやだ。苦しい、怖い、哀しい、…愛しい。 周りに誰も居ないことをいいことに、あたしは泣き続けた。下を向いて、流れる涙を抑えきれずにいた。手で必死にふき取るのだけど、何度拭っても、溢れる滴が止まることはなく、あたしはどうしていいかわからなくなっていた。肩が不自然なくらい上下する。ひっ、ひっ、と一生懸命に自分が息を吸う音と、目の前で流れる水の音だけが、あたしの耳には届いた。だから、あたしは、不意に後ろから回された腕に、背中に感じる体温に、頭が付いていけなかった。油断していた所為でびくっと体が揺れる。それを抑え込むかのようにぎゅっと強く抱きしめられる。振り向かなくてもわかる、この煙草の匂い。 「…っんで、こんなとこに、いんだよっ…」 「ご、っ」 「めちゃくちゃ、意味ねえとこ走り回っちまった、じゃね、かよ…」 は、は、と短い単位で繰り出され、あたしの耳に触る吐息に、獄寺はずっと走っていたことを安易に想像させる。もしかして、ずっと、探してくれてた?その事実が信じられなくて嬉しくて、驚きで止まりかけた涙がまた溢れる。どんだけ泣くんだよ自分。鬱陶しいって、怒られるでしょうが、ばか。そう思っても止まることはない。また震え出したあたしを、さっきよりも強い力で抱きしめる。 「ごめん」 「…、え」 「お前のこと、大事にしたかったんだよ、だから、どこまで触れていいのか、わかんなかった。お前、簡単に…、壊れちまいそうだったから」 でも、それが、お前につらい思いさせてたなんて、思いもしなくて。と言葉を繋げる獄寺の声に、必至に耳を傾ける。すると、獄寺が、あたしの肩に額をつけて言った。 「だから、さよならとか、言うなよ…どうしていいか、わからなくなる」 「お前が、好きなんだよ」 その言葉だけで、十分だった。 (ここでキスして) |