部活が終わってからの自主練も終えて、更衣室で制服に着替えている時だった。「あ、」と声をあげた俺にノブが「どーしたんスか?」と問いかけてきた。

「数学のプリント、教室に置きっぱなしだ」
「いーじゃないっすかそんなん明日でも!」
「や、明日提出だから、持って帰ってやんないと」
「ったく真面目だなあ神さんは」

ぶすっと口をとがらせるノブを見て俺は少し笑って、「先に帰ってていいよ」と言った。待ってるって言ってくれたけど、今日はいつもの倍ぐらい牧さんにからかわれて走り回ってたようだし、すぐに帰って休んだ方がいいだろう。

 俺はエナメルバッグを肩にかけて、暗い廊下を通り一人教室に向かった。幽霊や何やらが怖いとかいうわけじゃないが、さすがにこの時間帯のこのぼんやりとした暗さは、あまり好きじゃない。早くプリント持って帰ろう、と暗い教室の扉をガラっと開けて、手探りで電気のスイッチをONにした。すると明るくなった教室で、机に突っ伏している誰かの姿が目に入った。

(誰だろう…こんな時間に、…って…)

 あの席って、もしかして、もしかしなくても。

 (…さんだ…)

 寝息を立てているのは俺の前の席のさんだった。かわいいって評判なのに明るくて着飾ってなくて、クラスの人気者。そんでもって、俺の好きな女の子。まさか会えると思っていなかった俺だから、自然と口元がゆるんでしまう。俺はさんの前に回って、誰かの椅子を借りてそれに腰かけた。さんのつむじがこっちに向けられていて、腕に乗っけられている顔に、掛かる髪の隙間から見えるのは閉じられた目と、白い頬。

(華奢だなあ…バスケ部なのに。)

裾から見える指先に誘惑されて、触れそうになってしまう。だけど呼吸をする度に上下する肩が、それを躊躇わせる。

(かわいいな…)

 自分のように彼女を好きで、自分のように彼女に触れたいと思う男が、他に何人いるのだろう。きっと、俺が思っている以上に多い筈だ。でも、今、誰よりも彼女の傍にいるのはこの俺だ。そう思うと、どうしても嬉しくて、つい、というか、とうとう、と言ったほうがいいのか。彼女の頬に指を滑らせてしまった。すると、閉じられていた瞼が、ゆっくりと押し上げられてた。(あ、)

「ん…、?」

少し乱れた髪のままゆっくりと体を起こして、彼女は俺を見た。俺はどきっとして、つい前のめりになっていた身体を元に戻した。

「神くんだ…」

彼女は眼を指で擦って、まだ眠たそうにしている。血が沸騰しているような感覚がして、手をぎゅっと握りしめる。

「ごめん、起こしちゃったね」

それをごまかすように俺は言葉を続けた。

「何でこんな時間に?」
「あ、部活終わった後、数学のプリント忘れたの気づいて、戻ってきたら…」

寝ちゃったみたいですね〜、と彼女は笑った。俺と同じ理由だったのがすごく嬉しくて、また触れてしまいそうになった。けど、今は我慢しよう。

 「もう暗いし、家まで送るよ」

  俺の気持ちが、君に届くまで。


(鱗のきれいな君の頬)