例えば目の前に盛りのついた牛が現れたとしよう。例えば目の前に猟奇的殺人鬼が現れたとしよう。牛は鼻息が荒く今にも突進して俺の肋骨を突き破りそうな勢いだし、殺人鬼はチェーンソーとか斧とかそれはもう大変血まみれで何十人と人を殺してぐちゃぐちゃにしてきたちょっとばっかり頭がイっちゃってるような人間なわけである。そんな展開になったら、俺はどうするだろう。どうするも何もない、命の危険を感じたら俺はすぐに逃げる。 いくら喧嘩好きでも自分の命の安全性が怪しまれれば逃げて隠れたくもなる。息をひそめて泣きたくもなる。 という仮定を置いたとして、この状況をどう打破すべきか結論を出したい。 彼女と一緒に知らない世界に飛ばされた場合は? 目が覚めたら腕の感覚がなくて一瞬腕がもげたかと思って物凄く焦った。それはもう物凄く。礼儀正しく綺麗に敷かれた布団の中で寝たまま、腕を持ち上げて顔の前まで持ってきてみる。白い、包帯とも言えなくもない布がぐるぐると巻きつけてある。痛くもないが、欲しい筈の感覚もない。嘘だろ。 本能的にひじを曲げようとすると、力が入らずにぼとっと腕が布団の上に落下した。 なんなんだ、一体。 心臓がうるさくてこれ以上寝ていられなくて上半身を起こすと、自然とあたりが見回せるようになった。その時俺は初めて隣にが、さっきの俺と同じように寝ていることに気がついたのだ。どれだけ気が動転していたのか。いつもなら、かすかに香るシャンプーのにおいで、わかるというのに。…これだけ言うと、まるで変態だ。まあ、言い直しはしないが。 どうしてこんなことになったんだっけか。こんなことってなんだ?ここは、一体どこだろう。 見慣れているの寝顔を見ながら記憶をたどる。つまんねー授業ほっぽりだしてたら、あのなんもわかっちゃいねえ教師に引っ張られて、大江戸幕末巡回展に、連れてこられたんだっけ。は来なくてもよかったのに、俺が行くというと楽しそうに笑って「ついていく」と言ったのだ。それで、結局2人でバックレて、橋を渡ろうとしたら…なんかみたこともねえ恐ろしい顔したバケモノが出てきて、CGかと思ってすげーなとか2人で話してたらいきなりに襲いかかろうとして… あ? それで俺の腕がこんなんなったのか。それなら、いい。本望だ。こいつを守った傷なら、俺にとってはノーベル賞よりも高価な賞状だ。 傷を負ったところまでならなんとか理解できる。いや、あのバケモノを理解できるにはまだかなりの時間がかかるだろうが。とにかく、俺とはどうしてこんなところにいるのだろう。 外の雰囲気でわかるこの違和感に押しつぶされそうになる。それを堪えるように俺はの寝顔を凝視している。 閉じた目がふるふると震えたと思ったら、ゆっくりと開く。その目の色がいつものきれいな黒で、少し安心した。はゆっくりとこっちを見てからがばっと勢いよく起き上がった。 「紺!!!」 「あんだよ」 返事をするとびっくりしたように俺を振り返って、ほっとしたような顔をする。 「…は〜…よかった、紺…」 言いながら俺に座ったまま近づいて首に腕をまわして、ぎゅっと抱きしめられた。いつものの柔らかさとか優しい感じとかが感じられて、自然と口端が緩んだ。けれどそんな安心感もすぐに崩れ去ることになる。 「紺、あたし…足生えてる…?」 ぎょっとした。急いでの下半身を覆っている布団を捲ると、どういうことか足は生えていた。いつもの細く白い足が伸びている。 「おい、驚かせんなよ」 「違う、み、右足が…」 俺から離れて自分の右足をゆっくりと擦った。血の気が引いていくの顔に驚いた。人って、こんなに青くなるものなのか。そんな俺も、同じような顔色をしていることを自分ではわからない。 「紺…」 泣きそうな顔で俺を見上げるを、次は俺から抱き締めた。彼女の右肩を融通のきく左手で後ろから強く包み込むと、小さく震えてるのが嫌でもわかった。俺は、を守れたわけじゃなかった。自分の腕はどうでもいい、彼女を、守ることができなかった。大事な女を。 「、…悪い…」 「…?」 「ちゃんと、守れなかったみてぇだ…」 弱弱しい声に自分でも驚く。掠れた声が彼女に届いているのかと思ったが、ぎゅっと背中にまわされた手が俺の着ている着物を掴んだ感じがした。 「紺が居てくれてよかった」 ああ、不覚にも泣きそうになる。 「守れないとか本当にどうでもいい。どうでもいいから、一緒にいてくれればいいから」 「…ああ」 「あたし、紺がいないと、歩くこともできなくなっちゃったんだからさ」 責任とってよね、と、知らない場所で、知らない部屋で、彼女は小さく笑った。 (愛してください全力で) |