高校を卒業してから、空を見上げることが多くなった。携帯の料金を気にするようになった。洗濯物たたんでないどうしようとか、皿置いたまんまだ、とか、考えることが増えた。それが、大人になるということなのだろうか。高校生の時は見えなかったものが、少しずつ、見えてくるようになったのはきっと気のせいじゃないと思いながら、俺は今日も、空を見上げる。 「ちわーっす」 あけるとキイッと耳障りな音を立てる扉のドアノブを回して押し出す。もうこの部屋に来るのが慣れた大学1年の夏、俺は確かに成長していた。身長はさすがに少しずつしか伸びないが。 「遅いぞー水谷」 「いやーメガネ先生に捕まっちゃってさー」 機材運ぶからお前も手伝えって言われて大人しく手伝ってきたよ、と言ってあいているイスに腰を下ろす。優しい光が窓から照らし出されるこの部屋の雰囲気が、俺は好きだ。机をはさんで真正面に座る栄口は「災難だったね」と言って苦笑した。ちなみに栄口のこのふんわりとした雰囲気も、俺は好きだった。 「またのろのろ歩いてたんだろ」 後ろから声がして振り返ると、煙草を銜えた阿部が厭味な顔つきで俺を見下ろしていた。鋭い目の前で白い煙がゆっくり立ち昇って、天井に当たる前に消えた。 「そんなことねえよ!角曲がったらちょうど先生と鉢合わせしちゃったの!」 「ナメられてるからそんなことになんだよ、このヘタレ」 口にくわえた煙草を離してニヤリと笑う。大人っぽいこの男は煙草を吸うと更に年が離れて見えて、とても同い年には思えないほどだ。「もうちょっと真面目に講義受けろよタコ」と言って勢いよく口から白い煙を吐き出してまたニヤリと笑った。俺はううううううって唸ってから栄口に、いつものように「阿倍がいじめるー」と泣きついた。うーん、もう大学生なんだからって思うんだけど、癖になっちゃったからなかなか…。栄口は困った風に笑いながら俺の頭をポンポンと叩いて「よしよし、今日は焼き肉野菜炒めにしてやるから」といったので俺は気分が晴れた。 「うおおおおおやった!!!さすが栄口!最高!」 「野菜炒めくらいでお前」 「お前栄口の野菜炒めばかにすんなよ!すごいんだよもうこいつ俺の中の料理長なんだよ!」 ふっはー今日は良い夢見れそうだー!と思いっきり体を伸ばしていると、廊下のほうから会話する声がした。振り向くと女の子の声が聞こえてきた。…きた! 「こんちはー」 窓から吹く風に髪を煽られながら、は入ってきた。俺の好きなにおいの香水を連れて。 「おー」 「おはよー阿部」 「もう昼過ぎだぞ」 「初めて会ったから!」 「ああ…まあいいやそれで」 笑顔でおはようと、近くにいた阿部に挨拶するのほうに立ち上がって近寄る。なんか、仲いいオーラが出てるんですけど。まあ実際仲良いけどさ!阿部とは!ちょっと不満に思いながら阿部がまとう煙を避けて歩いた。 「おっはよー!」 「おはよー水谷ー!今日もお洒落だね!」 「ありがとう!もすごくお洒落!」 「あははっばかー」 楽しそうに笑うの後ろで、少し遅れて泉と花井が入ってきた。花井は大きなキャンバスを持っているのにもかかわらずそれを軽々と担いで、扉にぶつけないように慎重に入ってきた。 「やほー花井、どうしたのそのキャンバス。彫刻は使わなくね?」 「ああ、これな、のなんだけど。でかすぎて歩きにくそうだったから」 話しながらのほうを見ると、「まじでありがとうね!助かったー」と言いながら花井からキャンバスを受けとるは、きらっきらした笑顔だった。花井も笑顔で「いーえ」と言ってキャンバスをゆっくり手渡す。その光景を横目で見ながら俺はまた元いたイスに座った。栄口が花井に「田島は?」と問いかけると、「購買に走ってった」とため息交じりに言った。それを聞いて栄口も「ああ…」とため息をつきつつ苦笑した。栄口は本当に眉を八の字にすることが多い。苦労が多くて少し大変そうだ。 みんなが荷物を置いて椅子に座って、さあやっと休めるぞという雰囲気になったとたん、ドアが勢いよく開いてガッサガッサという音を立てながら「今帰ったぞー!!!」という田島の大声が響いた。 「声でけーよ田島」 「うっはー!おっはよー泉!それより見てよこれ大漁!」 肩から提げているエナメルバックよりでかいサミット袋を一つの腕に一個ずつ下げて田島はまぶしいぐらいの顔で笑った。阿部と泉はすでにテーブルの上を片づけていて、「ここに置け田島ー」と手招きした。「あんがと!」と言いながらテーブルにどしんとパンパンになった袋を置いた。 「こりゃまたずいぶんと大漁だな」 「花井にはこれ買ってきてやった!じゃがりこ!」 「あーいいなーじゃがりこ!いっこ頂戴田島!」 「えー、にはチョトスかってきてやったのにい」 「えっうそ!ありがと!」 「田島ー俺にはー?」 「水谷はそこらへんから適当にとってってー」 「うわっひどっ扱い!」 「水谷だしな」 「水谷だからな」 「しょうがないよな」 「ちょっとそこ聞こえてるからねドSコンビ!」 わいわいがやがや、いつもと同じ雰囲気の中、何時もと同じ人間関係の中で、俺達は同じ時を共に過ごす。居心地が悪いと感じたことはなく、ずっとこの中に入れたら楽しいのに、といつも思う。そんなこと考えてるのはきっと俺だけじゃないと断言できる。なぜなら俺達は同じ穴の狢であるからだ。 「しのーかは?一緒じゃないの?」 「今日はバイトあるからすぐ帰っちゃった」 「あー、早い時間からのバイトは大変だな」 「泉、それなんかいやらしい」 「そう?」 「なんか、夜の雰囲気が出てるもん」 「まあ確かに夜のバイトだけどさ」 「えっ泉ってホスト!?」 「なわけねーだろヘタレ、普通にコンビニだっつの」 ゆっくりと時間が過ぎていくのを、俺はとてももどかしく思う。やっぱり、ずっとこの中に入れたら楽しいのにって、心の中で反響してまた吸収されて、また反響して、っていうのを繰り返して、俺たちは早すぎる経過の中、大人になっていく。とても時間をかけて。 大人になっていく。 |