何もすることがなくて帰ろうかと思ったけど、やっぱり帰っても何もすることがないことに気がついた。課題を早めに終わらせると、こんなにゆっくりできるものなのか。俺は初めて知った。いつも提出期限がぎりぎりな俺が期限の2日前に提出したら、教授もびっくりしてた。仕舞には「お前、何か悩み事があるのか?先生は何でも相談に乗るからな」と心配までされた。そんなに、珍しいかなあ。いや、珍しいか。ちょっと秋の風を感じる肌寒いこの季節、落ち葉がひっきりなしに落ちてくるベンチに腰を下ろした。見上げると、灰色の空が、赤でもオレンジでもない、微妙な色彩をもった葉を生んでいるように見えた。

「水谷」って、俺を呼ぶ声を思い出してみる。そして一人でにやける。あー、まただ。こうやって考え始めれば、きりがないんだ。それで、周りが見えなくなる。そんな中課題なんてやったら、信じられないほどサクサク進んで、予定よりも早く終わっちゃったんだ。みんなみんな、あの子の所為だ。所為って言い方はちょっと聞こえが悪いかもしれない。でも、実際あの子の所為なのだ。あの、やさしく笑う、あの子の。

自分で考えててちょっと恥ずかしくなってきて、空から視線を戻してみると正面玄関のほうでコートを羽織るの姿が見えて勢いよく立ちあがった。ああ、周りに誰もいなくてよかった。門のほうに歩きだす彼女を見てそれを目指すように早歩きする。足音に気がついたのかこっちをみて、「水谷」と俺の名前を呼んだ。

「どっか行くの?」
「うん、買出し!筆がねー、使い物にならなくなっちゃったから、駅前まで」
「あ、あそこの文具屋?俺も行くよ」
「え、いいの?なんか用事とか…」
「大丈夫!することなくて暇だったんだー」
「そっか!じゃーお願いしまーす」

お願いされちゃったよ。







「で、どの筆?」
「んーと、ラウンドと、あっあとペインティングナイフの予備がもうないからー…」

うーん、と大きい棚の中に入っている道具類を見て行ったり来たりしながら彼女は唸った。そんな姿がかわいくて苦笑すると、 はふと俺を見上げて、「ごめんね、時間かかっちゃいそう」と眉を下げた。前髪の生え際がよく見える。そっか、俺のほうが断然デカいから、こんな風に、簡単に、見降ろせちゃうんだ。旋毛も見えるし。そう思ったら、ちょっと胸が心地よく痛んだ。

結局40分近く悩みに悩んだ末購入を終え、俺との休憩のために近くの喫茶店に入った。初めて入ったけど、いい感じだなーここ。今度、栄口に教えてやろうっと。

「何飲む?」
「あたしはアイスティーがいい!水谷は?」
「俺もそれがいい!すいませーん」

店員を呼んで、アイスティー2つで、と頼む。店員はさっぱりとした笑顔を張り付けてかしこまりました、って言って奥へ引っ込んでいった。っていうか、案外机を挟んだ距離って近い。彼女がテーブルに肘をついているから尚のこと、俺との距離が近い。歩いてた時はあんまり気にならなかったのに、こうやって改めて真正面から向かい合うと、照れてしまう。

運ばれてきたアイスティーを静かに口にしながら彼女は窓の外を覗いた。つられて俺も窓の外を見てみると、さっきより大分空が明るんだようだった。雲が千切れて向こう側から青い空が見える。

「水谷はさ」
「ん?」
「なんで美大に入ろうと思ったの?」

俺はう〜んと唸る。

「何でって…う〜ん、何でだろ?」
「えー」
「絵を描くのが好きだったからかな?なんか今考えればすごい単純に決めたような気がする」
「や、でも絵を描くのが好きって、ちゃんとした理由だと思うよ?」
「うん、でも、それで将来何をして生きていきたいっていうのが、正直俺にはまだないっていうか…」

馬鹿だからさ俺、と言って笑ってみせると、彼女もおもしろそうに笑った。

は?何で美大に入ろうと思ったの?」

同じ質問を彼女に聞き返してみた。すると彼女は少し驚いたような顔をしてから、グラスに傾いているストローをいじりしながら微笑んだ。

「あたしも水谷とおんなじ感じだよ?絵を描くのが好きだ、よし美大入ろーって」
「あはは」
「でも、あたし、ここに入ってよかったと思ってる」

ストローの先でカラカラと氷を揺らす彼女の手元を見ながら、何で?と問う。するとは、揺れるアイスティーから俺に目線を上げて、「だって水谷とか、皆と仲良くできてるもん」と、笑った。

もう、なんで、そういうことを言うのかな。俺の目の前でそんなこと言って、もっと好きになるの目に見えてるってのに。